沖縄の音楽と平和への願い

 
ハイタイ、MIRIKAです
 
今日は、ちょっと堅い話になりますがこのブログを読んで下さる方々に、沖縄の事を紹介していこうと思い、またには真面目に沖縄について語ろうと思います
 
今日は、沖縄の音楽と、沖縄の人々の平和へのについて。
 
皆さんご存知かとは思いますが、沖縄を代表する芸能の一つに、沖縄民謡(島唄)があります。沖縄民謡の歴史は、沖縄最古の歌謡集「おもろさうし」や、琉球古典音楽(琉球王朝の宮廷音楽)が源流であるといわれています が、民謡が盛んになった理由の一つに、14~15世紀頃に中国から伝わった楽器「三線(サンシン)」があります。三線は、MIRIKAの記憶が正しければ、中国語でも「サンシン」という発音だったハズ!?(今度確認してみます 汗) また、大正末期から、男女が夜、野原や海辺で歌や三線に興じる「毛遊び(モーアシビ)」と呼ばれる風習が広く行なわれたことによって庶民にも民謡が広まったと考えられています。「毛遊び」での民謡の歌い方は、自分なりの歌い方で味付けしたり、既存の曲にアドリブで歌詞を乗せたり、逆にある歌詞に好きな曲を乗せたりと、様々だった様です。
三線の登場と、毛遊びの流行で盛んになった民謡。島の人々は、沖縄の歴史を、音楽と共に生きてきました。
 
そして、沖縄戦。すべてを失い、三線も失い、疲弊した生活のなかにあり、明るい話題など無い時でも、人々は沖縄の心、沖縄の歌を忘れず、空き缶やパラシュートの紐で三線を作り、歌い続けました。
 
歌い続けた人の一人であり、ぱいかじママ(うちのお母さん)が尊敬する人の一人に、小那覇舞天(オナハブーテン)という人がいます。
 
終戦直後の石川市。沖縄戦で米軍が造った避難民収容所とその周囲には、戦火に追われた三万の人々が集まり、テント、かやぶきの掘っ立て小屋、仮設住宅がすき間なく立ち並んでいました。戦争で受けた傷を癒す間もなく、その日を生き延びることで精いっぱいでした。
 
そこに突然、現れた風変わりな男。それが小那覇舞天でした。
 

舞天氏は、「ヌチヌグスージサビラ(命のお祝いをしましょう)」、と叫びながら民家を回り、突然三線を弾き、歌い、踊りだしました。突然やって来た中年の男が、即興の歌を民謡の節に乗せ、琉舞を崩したヘンテコな踊りを舞うのです。最初は、珍客に驚き唖然とする住民達でしたが、やがて、ユーモラスな姿に乗せられ、一緒に踊りだします。終戦の年、四十八歳だった舞天氏は、そうやって人々の心に明かりを灯していきました。

そうやって小那覇舞天氏と共に民家を回ったお弟子さんが、照屋林助氏です。ご存知の方もいるかと思いますが、いなみ~はりんけんバンドに師事しています。りんけんバンドの照屋林賢氏は、林助氏の息子さんです。りんけんバンドも、平和への願いや環境問題への関心の強いバンドで、唄にその様な願いを込めたり、或いはチャリティー活動に参加したりしています。ご縁があり、子供の頃からの憧れだったりんけんバンドにかれこれ二年程師事しているいなみ~ですが、いなみ~自身、平和への願いを唄にして披露しており、また、南風ファミリーは、チャリティー活動にも積極的に参加しています。

6月23日は、沖縄では、慰霊の日、1945年6月23日の組織的戦闘が終結したことにちなんで、沖縄県が定めた記念日です。沖縄では、学校などは休みとなり、正午には、島民は黙祷をします。そして、我が息子、いおの誕生日でもあります。予定日より8日も過ぎてこの日に生まれた息子を、MIRIKAは勝手に「平和の使者」だと思っています。

今月から、ぱいかじでは、ライブを増やしています。ぱいかじのライブでは、皆様、命のお祝いをしましょう!ヌチヌグスージサビラ!

いなみ~、南風ファミリー、いちゃりばちょ~で~は、平和な世界を、そして、子ども達の明るい未来を願い、沖縄の魂と心を忘れずに、活動を続けていきたいと思います。

                                                                    MIRIKA

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